■旅行記 ”日本一周旅行” 25日目 : 塞翁が馬  (1996.09.01 Sun)

 今朝は久しぶりに雨も風もなく、テントの中でぐっすり眠ることができたが、その眠りを破ったものは、太陽の日差しでもなければ鳥の鳴き声でもなく、少しだけ妙な、人々のわめき声だった。
 熊本市内の閑静な住宅街の一角にある公園にテントを張って眠っている僕が、それに気づいて目を覚ました時、何が起きているかよく分からなかった。そして寝ぼけ眼でテントのファスナーを上げて顔を出して辺りを見ると、そのこじんまりとした公園は老人たちでいっぱいになっていた。
 私はその公園の唯一の入り口から一番遠いところにテントを張っていたので、その人々と多少離れてはいたが、それでも話し声は全部聞こえるし、こちらが顔を出したのも向こうはすぐに分かる距離である。顔を出したとき何人かと目が合い、うなずくべきか、挨拶するべきかを悩みつつ、何となく顔を引っ込めてしまった。ご老人たちはこれからどうやらラジオ体操を始めるようである。
 何となくこのままで出るのは恥ずかしいので、髪を整え、着替をして、それからテントを出た。みなさんがいるすぐ脇で顔を洗うのもどうかと思い、なんとなく居場所が無いので公園の外に出ようと思った。
 しかし、公園の唯一の入り口であるところは、ご老人たちが等間隔に広がり、今まさにラジオ体操を始めんとしているところなので、公園から出る事すらできなかった。もちろん、ラジオ体操が始まってしまってからではもっと出られそうになかったが、もうラジオ体操は始まってしまったので、なんとなくバイクをいじる振りをした後、テントに引っ込んだ。
 結局、ラジオ体操が終わってからも、しばらくご老人たちが屯っていたので、なんだかのんびりとした滑稽な朝となった。
 そんなわけで熊本を出たのはそんなに早くなかった。もう、糸の切れた凧のように、「なるようになれ」という気持ちがあって、目標を失ったような、暇つぶしで走っているような気さえするほどだった。
 ただし天気がいいと、やはり気分がいい。熊本の海は磯が多く、海の水もきらきらと輝いていて、ものすごい暑さだったが、雨よりははるかに爽快だった。そんな海を眺めては時折バイクを停め、写真を撮ってはまた走り続けた。そうやってなんとか気持ちを先へと繋いでいた。
 大して走ってもいないのに、時間が経つのがやけに早い気がした。あっという間に太陽の日差しが緩みはじめた。確かに八代のあたりは渋滞していたせいもあるけれど、時間が経つのが早いのは、ずっと考え事をしていたからだろうか。
 そう、バイクに乗っていると、いろいろな事を考えてしまう。ラジオが聴けるわけでもジュースが飲めるわけでもないので、良くも悪くもそうなるものだ。そして、ほとんどが今までと同じように同じことを繰り返し考えているだけであったが、熊本からもうすぐ鹿児島に入るということで、あの有名なカヌーイストの事を思い出していた。
 ほとんど本を読まない僕にとって、きっかけはさておき、あのカヌーイストが書いた本の数々を読んだことは、運命と言っては大げさかもしれないが、とにかく幸運だったことには間違いない。当時の僕は強烈に惹き込まれた。一見、単に自由奔放でありながら、しかし人として当然の権利や責任をしっかり持って生きているその姿に惚れ込み、そして影響された。これらの本に出合わなかったら、今でもまだまだひ弱な存在だけれど、今の自分さえ有り得なかったわけである。そうであったらもちろん、バイクでここまで来る事もなかっただろう。
 そうこうしているうちに鹿児島県内へ入った。そして少し走ると、少しやまなりになった長い橋に差し掛かった。川内川(せんだいがわ)である。休憩がてら何となく、橋の真ん中辺りでバイクを欄干に寄せて停め、夕日を背にして欄干に肘を付いた。
 「僕はなんて弱い人間なんだ」と、またもや自己嫌悪である。テント泊がちょっと続いたくらいで弱音を吐いている。でも腰も痛いし、風邪も引いてしまって苦しいのは確かだ。そして、熊本育ちのあの有名なカヌーイストだったらもちろんこんな事では弱音は吐かないし、こんな僕を見たらきっとぶん殴ってでも根性を叩き直してやるなどと言って酒を飲みながら説教するに違いない。そんな、他愛も無い事を思いながら、「さて、これからどうしたものかな」と、しばらくそこにいた。
 もう、自分にとっては心身ともに限界で、正直、誰かに助けてもらいという甘えがあった。そう思えば思うほど、自己嫌悪に陥るばかりであったが、もう本当に心に余裕が無かった。何より目標を失いかけていた。「家に帰る」という目標以外で、大きな動機がまだ一つ残っているが、それはあまりにも浅ましくはかないものなので、目標と言うよりは単なる妄想に過ぎなかった。だから他に何か、今の自分を奮い立たせるものはないかと、そんな事を考えてしまった。にっちもさっちも行かなくなった時、あのカヌーイストならどうするのだろう、どうしただろう。
 「いっそのことあのカヌーイストを探し出して会ってみてはどうか」と、その時思った。土浦のパンクの時ではないけれど、状況がひどくなればなるほど、冗談みたいな事を考えてしまう。そう、確かに僕が最後に読んだ本にも、鹿児島在住と書いてあった。いやいやしかし、その気持ちはすぐに撤回した。
 確かにカヌーイストは全国に数えられないくらいいるけれど、あの人はただのカヌーイストではなく、カヌーをしているすべての人が知っているくらいである。それに作家として有名な方なのである。環境問題に取り組んではニュースになったり、愛犬と一緒にCMにも出演したこともあるくらいだ。そんな人がすぐに見つかるはずがないし、万が一見つかったとしても、会えるわけがない。
 そんな事を考えるなんて本当に頭がどうかしてしまったんだ、気が触れる一歩手前とはこういうことなのだろうか、思ったけれど、そんな冗談みたいな他愛も無いことをする以外に、ここからバイクで出発する気力など奮い立たないくらいだった。
 うつむいていた自分を自分で嘲笑いながら顔を上げて川に目をやると、川岸に大きな釣具屋が見えた。ここに着いた時から何気なく目には入っていたが、今はそれが、さっきよりも大きく大きく見えた。
 その時、自分の中の何かの留め金が「ポン」と音を立てて外れたような気がした。


− − −


 「すみません、あの有名なカヌーイストをご存知ですか?」
 相手は、呆気に取られたような、でも、不審な人物を何気なく観察するような目つきで僕を見た。そして「釣りもカヌーもやってるんだから知ってて当然だ」というような顔つきに変わった。僕は反射的に、尋ねた僕が馬鹿だった、という顔をして、悪気はないんだという態度を取ってみせた。そして訳を話すとすぐに雰囲気は和らいだので安心したが、釣具屋の店員は「さすがに住んでる場所や連絡先までは分からないな」と困った顔をして、他の店員にも聞いてくれたが、やはりみんな知らなかった。やはりそんな、うまい話があるわけがない。
 しかし、親切にも、「あのカヌーイストととても仲の良い地元のカヌークラブの会長さんを知っている」と、その会長さんの連絡先を教えてくれた。僕はそれだけでもとても嬉しくて、その事で我に戻ったか、急に恥ずかしくなり大げさに感謝の言葉を言って早々にその釣具屋を出た。
 しかし、困ったものである。知り合いの電話番号を聞いたとは言え、その人に何と電話をすればいいんだろう。「あの有名なカヌーイストに会わせてください、埼玉から延々六千キロもの道のりをやってきて、それを実現できなかったら僕はここで倒れてしまいそうだ」とでも言うのか?と思うと、笑いがこみ上げてきて仕方が無かった。本人に直接言うならまだしもだ。
 とは言え、すぐに諦めることも出来なかった。なにしろ今の僕には、それ以外に興味ある目標が無いからだ。一体どれくらいそこ−−釣り具屋の目の前では何だから、釣り具屋から見通せないくらいのところまでバイクを引いて歩いてきたところ−−で自問自答を繰り返していたことか。そうやって、そばにあった公衆電話を出たり入ったりしていた。こういう時は僕はいつも以上に優柔不断になる。もっとも、こんな奇妙な場面にはなかなか遭遇しないけれど。
 しかし、なんだかんだ言って結局電話をしてみた。もう第一の何かが取れてしまっていたから、第二の何かが取れるのは、時間こそかかったが意外に簡単だった。第一、考えてみたら、もしかしたらあのカヌーイストに会えるチャンスがあるかもしれないのに、電話一本するかしないかでそれをフイにしてしまうかどうかが別れるのである。普通の家族旅行やパックツアーで鹿児島を訪れたとしたら、いくら丁寧な書簡を出そうがどうしようが、こんなチャンスはまずやってこないわけで、行き場を失っているとは言え、つまりいくらでも自由に行動できるわけなのだから、チャンスは今しかないのだ、と思ったら、風邪で声が潰れていようがどうしようが、電話をする気が湧いてきた。まあ、どちらかというとここでも「なるようになれ」という気持ちがあった。
 実は一度、電話をかけた先は留守で電話が繋がらず諦めかけたのだが、もう一度電話し、留守番電話の自動応答が最後に教えてくれた電話番号を書き取り、改めてその電話をかけたらその会長さんが出た。
 とにかく僕は、その掻い摘むのが難しい事の成り行きを何とか話し、「だからここに電話をしてみたんですけれど」と、ちょっと無責任な言い訳をした。するとその会長さんは大きくて元気のある声で「現在あのお方はアラスカのユーコンに行ってるんですよ。残念だなあ。」と言って、同情してくれた。
 しかし不思議な事に、僕の気持ちはなぜか晴れ晴れしていた。ここで電話をしなかったら、遡れば、川内川の橋の上で思い立たなかったら、こんなことも分からくて、いつまでもくよくよしていただろう。僕は思いつくだけの言い訳の言葉と感謝の言葉を述べて、この電話、そしてこの小一時間のちょっとした小話を、ちょっとした思い出にするために丁寧に締めくくろうとした。
 しかし今度はその会長さんが「君はバイクでここまで来たんだね?埼玉のどこからだい?」と訊いてきた。もちろん僕はお礼にと言っては何だが丁寧に詳細に答えた。すると、「北海道をねえ。それにしても鳩山から?それじゃすぐ近くに大学があるだろう?僕はそこの学生だったんだ。僕も学生時代はバイクによく乗ったものだよ!」と話が弾みに弾んだ。僕はただただ驚くばかりだったが、次にそれは驚きを通り越え、まさに開いた口が塞がらないといった具合であった。
 「今日は仕事で君と会うことは出来ないけれど、あのお方の友達が鹿児島市内の砂浜に住んでいるから、今夜はそこに泊まるといい。僕ももちろん知ってるし、君が来る事を僕から伝えておくよ。そして後日、改めてうちに遊びに来るといい」
 僕は電話ボックスの中でめまいを起こして倒れるかと思った。実際、一瞬、時間や空間が飛んでしまったような、夢を見ているような感覚に襲われたのだった。


− − −


 電話を切ってからの僕は、まさに狐につままれたように茫然としていた。とは言えもう日没も間近らだから、考え事はバイクに乗りながらと、鹿児島市内に向けて走り出した。
 走りながら、たくさん山積になった疑問を一つ一つ整理していた。簡単に言えば、知らない人から知らない人を紹介され、さらにその人から、さらに知らない人の家に泊まるといい、と言われたわけである。一体その砂浜に住んでいるという、まだ見ぬその人は、どこの馬の骨とも分からぬ僕を見てどう思うだろう。そればかりが気になった。
 しかし「砂浜に住んでいる」というのも妙だ。きっと「海の家」かなにかを営んでいて、座敷が空いているからそこで休んでいったらどうだ、ということなのだろう。きっともう9月になってしまったから、お客さんもそれほどいなくて暇なのかもしれない。しかし先ほどの電話ではアパートらしき名前を聞いていたので、どうも腑に落ちなかった。
 そんな事を考えながら、言われた通りに鹿児島市内のある砂浜までやってきた。海岸沿いなのでそれなりに往来はあるが、雲が多くて灰色がかった空は少し寒々とした感じさえあって、静まり返っていた。砂浜にはほとんど人影がないし、それどころか海の家などどこにも見当たらない。
 さておき、待ち合わせ場所となったアパートの前に来た。アパートは砂浜に面していた。1階に入り口があると聞いていたのでドアを叩いたが、誰も出てこなかった。
 なんとなく、寂しい時間が過ぎていった。訳も分からずがむしゃらにここに辿り着いたけれど、今思えば本当に妙な話だ。まだ、夢を見ているようであり、何か、身の危険とまでは言わないけれど、自分が心配にさえなってきた。やっぱり砂浜には誰もいない。そして、言われたアパートにも誰もいない。
 まさにそう不安に思っていた矢先、背が高く細身だが逞しい、いかにも海の男といった色黒の男性がこちらに向かってきた。「君か」と、言葉少なに挨拶されたので、釣具屋での出来事を簡単に話した。
 日焼けのせいで、鋭い眼光が余計に鋭く光った。その人は少なからず、でも目立たぬように一瞬、僕を確かめるような目つきをした。別に軽蔑でも無礼な態度でもないけれど、それは確かに、どこの馬の骨とも分からぬ奴だ、そうやって見定めるのは当然だろうと、こちらは「まな板の鯉」みたいに半分開き直っていた。
 後日、僕の友人からこの時の事を「なんでそんな危ない事をしたんだ」と言われた。見ず知らずの人に付いていくなんて、何が起こるかわからない、ということだった。
 確かに、そう言われてしまえばそれまでだが、だがしかしだ。もしそうなれば、僕の目に偶然留まった釣具屋の、その中で偶然働いていた店員も、そこで紹介されたカヌークラブの会長さんも、そしてその人が紹介してくれた、まさに今、自分の目の前にいるこの旦那さんもみんなグルになって、この僕を一体どうしようというのだ?この3人は僕が今日、鹿児島へ来る事も知らなければ、この汚い身なりの僕がどれだけのモノを持っているかも分からないのだ。
 逆に、この人たちこそ、僕がどんな奴かも分からないのに、よくもこれだけ親切に知人友人を紹介してくれたり家へ呼んだりするなと、それに感動するのがまず先である。僕から言わせれば「よくも付いていったな」ではなく、「よくも連れてきたな」である。それくらいに僕は、川内川のほとりの電話ボックスを出てからここに来るまでに、不思議にも似た幸福感と、大袈裟に言えば「押し寄せる平和」に顔を笑顔で引きつらせながら打ちひしがれていただけだったのである。
 とは言え、もちろんすべてを察したわけではないし、心のどこかではまだ不安があって、緊張と混じって、相当に顔も体もこわばっていたと思う。だがもちろんそのような態度は、自宅にこんな自分を通してくれた相手への敬意の下に閉じ込めておいた。
 さておき、通された住まいは、まさに普通のアパートだった。普通と言っても窓を開ければ、庭のように当たり前に砂浜が広がっているのであるが、「ハイツ」と言えばなんとなく大きさと古さが分かるだろうが、失礼ながら、本当に小さな住まいだった。
 だから、当然のことながら、僕がお邪魔したら、まったくの邪魔になるのである。日常の営みが、完全に途切れてしまうほどだった。居間の隣にある部屋も襖は開け放たれたままで一体の空間になっていたし、台所と食堂だって何の隔たりもなく、僕が座った座卓から簡単に見渡せた。それ以外に空間は無いのである。そうであればあるほど、僕の恐縮が強まるのは当然だった。
 そしてその恐縮はあっという間に極みに達した。この数十分の間、その旦那さんは僕と話をしている間に、いろいろと夕食の準備に取り掛かっていたようだったが、突然、「ちょっと出掛けてくる」と言って、僕を一人置いて家から出て行ってしまったからである。
 信じられないと思うのは僕だけじゃないと思う、と、自分に何度も言い聞かせた。鹿児島とは一体どんな国なんだ、僕がいるのは日本じゃないのか、彼らは何人なんだ、とさえ思った。数十分前まで会った事もない男が一人、でんと家の座敷に構えているのを自分の家に置き換えて考えれば考えるほど、自分がいま置かれた立場が分からなくなるほどだった。緊張と妙な興奮が体を走り、台所や、目の前の家具にさえ目を向けてはいけないと思うくらいに、一人硬直しきっていた。
 結局何も出来ないから、大きな座卓の真ん中に一人、極度の緊張を抱いて小さく黙りこくっていたのだが、やがて玄関の呼び鈴が鳴った。まさか旦那さんが鳴らすはずがない。そして僕が妙に思って、やはり居間から見えるその入り口を見た途端、鍵もかかっていないドアはがちゃと開かれ、若い男女が入ってきた。「これほど驚いた事もない」という言葉は、ここではもう通用しないくらいだが、その意外性ときたら他にない。
 しかし、その男女が若いといっても男性の方は僕よりはずっと年上だが、旦那さんの弟という感じではなかった。一方、女性の方は僕より多少年長という程度だったが、とても旦那さんの娘さんには見えない。そんな奇妙なペアが、勝手にこの家に上がりこんでいる僕を見ても大して驚かず、「よー」などと軽くうなずきながら入ってきて、僕にはあまりお構いなしで冷蔵庫を開け、ビールや食べ物を出して座卓に並べ始めたのである。僕は、「旦那さんも旦那さんだ、奥さんはもうすぐ帰ってくるとは言っていたけれど、こんな家族がいるなんて一言も言っていなかったな」と思った。
 とにかく摩訶不思議を摩訶不思議で塗りたくるように、僕にとって不思議な出来事は休まるところを知らなかった。しかしその二人は旦那さんに比べれば年齢も若いせいかお喋りで、話を聞いてようやく、僕は彼らが家族ではなく、家族のように当たり前に出入りしている友達だということが分かった。それにしても家へ上がる仕草、冷蔵庫を開ける仕草、当たり前のように座敷に腰掛ける仕草、どれをとっても家族そのものだった。
 そのうち旦那さんが帰ってきて、奥さんもじきに帰ってきた。これで僕も含めて総勢五人になった。こうして、昨夜まで、いやいや、つい数時間前まではまったく考えられなかった奇妙な、そして奇跡の宴会が始まったのである。
 ここから、朝の四時まで語り明かすわけだが、それは明日の日記に書くことにしよう。とにかく今でも信じ難い一夜は、怖いくらいの幸せのうちに更けていった。

  
熊本県南部の海岸は磯が続くが、海の向こうに天草諸島があるせいか海は穏やかだった。
この写真を見ているとものすごい暑さで全身びっしょりで走っていたのを思い出すが、道路が空いてて気分良く走れた。


【走行距離】 本日:210km / 合計:6,522km
熊本県熊本市 〜 鹿児島県鹿児島市

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