■旅行記 ”日本一周旅行”  2日目 : 二日目のハプニング  (1996.08.09 Fri)

 土浦を出たのは昼過ぎだった。前日、夜の9時に到着したせいもあるけれど、家の人がまだ起きるか起きないかという早朝に「さて、先を急ぎますので失礼します」ということは出来なかった。お世話になっているので長居は悪いと思うのは当然だが、祖母の弟夫婦に「おや、もう行ってしまうのかい?」と言われると、神妙な気持ちというか、妙な気持ちになるものだ。結局、遅めの朝食をしっかりといただいて、のんびりとお話をしてから出発した。
 しかし、お昼までの優雅さとは裏腹に、この後すぐに、僕が特に恐れていたことが早速起きてしまった。それは大雨でも事故でもなく、タイヤのパンクであった。
 親戚の家を出て10分も経たぬうちに、バイクが「ふらふら」っときた。国道のとある大きな橋を渡っていると、「おやっ、路面が凸凹しているのか?」、「地震か?」という希望的観測が頭をよぎったが、それは紛れもなくパンクだと分かると、僕の気持ちもバイクも腰が砕けたように萎えてしまい、力なく道端に寄ったきり、遂に動けなくなってしまった。
 雨降りは、避けようがない。事故は、安全運転をしていれば避けられる。しかしパンクは、運である。クギを、踏むか踏まないか。そしてその踏んだクギが、タイヤに刺さるか刺さらないか、である。実際はその確率を抑える走法もあるにはあるのだが、当時の僕にはそんな考えはなかった。因みにパンクしたのは後ろのタイヤであった。こんなときは大抵、前タイヤより大事な後タイヤがパンクするのである。
 さて、荷物をたくさん積んだバイクと僕は、まだ車がビュンビュン走る橋の上だ。欄干はコンクリートで、路肩もほとんどないから、すぐそばを車が過ぎていくので身動きをとりづらい。何台かの車はクラクションを鳴らして過ぎていく。ここでは何も作業は出来ないと思った。
 けれど、「パンク修理剤」というものだけは試した。スプレー缶みたいなもので、圧縮空気と一緒にタイヤに注入すると破れているところでそれが固まって、パンクが直るという代物だった。
 しかし、僕は使う前からそれにはあまり期待をかけていなかった。それは本来、チューブの無いタイヤ用で、自動車とか大きなバイクの、ほんの小さなパンクを一時的に直すものだったからだ。けれどその橋からなんとか出なければ、そして旅を続けなければという思いでいっぱいだったから、その場で使ってみた。
 思った通り、やっぱり効果はなかった。走り出してほんの数秒で、2度目の挫折感を味わった。それを注入して走るには、荷物が重すぎるのである。あっという間に注入したものが全部抜け出てしまった。
 しかし、箱の荷物が重すぎてバイクが押せない。仕方が無いからいくつかの荷物を出して、バイクの前方−ライトやハンドルのところ−に引っ掛けたり、それこそ首や肩から掛けたりして、少しでも押しやすいようにした。そして橋を渡り切り、幹線道路を逸れ、舗装路ではあるけれど田んぼ脇ののんびりとしたところにバイクを停めた。
 まさかこんなに早く、パンク修理の実践を行わなければならないとは夢にも思わなかった。しかも、つまり実践は初めてで、ろくな道具も無く、「これでいいの?」という問いかけに答えてくれる先生も無く、せっかくの旅行だから直してあげるという神様の確約も無い。「タイトルだけは立派な旅行が、まさか二日で終わってしまうのか」と、じりじりと太陽が照りつけ、気が遠くなるような湿度と気温の田んぼ脇に、溜め息と共にしゃがみこんでしまった。しかし嘆いてばかりいても時間ばかりが過ぎてしまうので、僕はとにかく、タイヤをはずす作業に取り掛かった。
 修理をしながら「僕は何にも束縛されていない、自由人なのさ。なのになのに」と、そんなことを念仏を唱えるように自問していた気がする。そうであるはずなのに、道路に座り込みながら、タイヤのパンクを直すその手は、焦って震え出しそうなほど頼りなかった。うまくこなせずてこずって、進むのは汗の滴と喉の渇きばかりだった。
 それでも、ここでいう「最悪の事態」とは、パンクが直せず、僕が白旗を振ってバンザイして、このバイクを置いて電車で家に帰り、軽トラックでもレンタルしてここへ戻ってくれば済んでしまうだけのことである。そう思うと、今まさに起こっている事のささやかさと、つい先ほどまでの真剣な自分のギャップがおかしくておかしくて一人で笑ってしまった。さっきまで神経質な顔をして炎天下で作業をしていた若者が、タイヤがはずされたままの壊れたバイクの前で工具を持ったまま笑っているわけだ。国道を逸れたのどかな田園風景の中だったから成り立つ光景だったかもしれない。
 そうやって気持ちが楽になると、作業も落ち着いて出来るようになった。「夜になっちゃったらここにテントを張ればいい。さもなきゃ歩いて親戚の家まで戻ればいいや」なんて思いながらのんきに作業をしていた。そして一度、パンク修理剤を注入してしまって、穴を塞ぐボンドとゴムのパッチがなかなか接着しないチューブの修理は諦め、思い切って、持参していた新しいチューブに交換した。そんなこんなでやっとバイクが元通りになったのは、パンクから3時間以上経過した後だった。
 昨日、実家を出た時間より遅くなってしまっていた。これから、どこまで走れるだろうかと思い、ただひたすら6号線を北へ北へと進んでいった。
 日が暮れても、ひたすら走り続けた。福島県に入ってすぐのいわき市内から、郡山に住んでいる友人に電話をしたけれど留守で、郡山には向かわずそのまま海沿いを北上していたが夜になり、さすがに泊まるところを決めなくてはならなくなった。そして双葉町というところからもう一度だけ電話をした。通じたら遠回りだけれど郡山へ、いなければ近くの適当な川原にでもテントを張って寝ようと決めて電話をした。友人は在宅だった。
 それから急遽進路を変更し、真西へ向かう、峠を越える進路を取った。それから1時間ちょっとで郡山に着き、友人と会うことが出来たわけだが、やはり時刻は夜の9時近かったように記憶している。
 炎天下での作業の後、病的に走り込んだものだから相当疲れているはずだったが、友人と会ったらそんな疲れは忘れてしまい、結局夜遅くまで話し込んでいた。
 昨日に引き続き、終わってみれば結果オーライの一日だった。しかしそれは、のんびりできる余裕があるからこそ、である。自分で言うのもなんだけれど、自分の時間を、自由にわがままに使っている、豊かな時間の過ごし方だなあと、ささやかな幸せをかみしめながら、明け方、眠りに就いた。


親戚の家にて。
僕の初めての一人旅は僕が中学二年生で、
このお二方がまだ新潟の小針に住んでいるときにそこまで行ったものだった。


 
後タイヤをはずすとバイクが後ろに倒れてしまうので、前方に荷物をいっぱい引っ掛けての作業。
「たった二日で終わってしまうのか」という絶望の末に滑稽さが生じて呆れ半分で写真を撮る。


【走行距離】 本日:268km / 合計:405km
茨城県土浦市 〜 福島県郡山市

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